ホーム > コラム > 三社祭へのプロローグ「浅草寺本尊示現会」

2014.03.26 (Wed)

三社祭へのプロローグ「浅草寺本尊示現会」

三社祭といえば全国的にも有名な江戸の祭りですが、浅草にとって同じくらい重要な祭りが「浅草寺本尊示現会」です。浅草寺のご本尊である聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)さまが推古天皇36年(628)3月18日にご示現されたことを祝う日で、今年も無事に催行されました。5月に開催される三社祭へのプロローグでもあります。

「三社祭」の由来は、浅草寺と浅草神社が一緒に祝う「観音祭」

推古天皇36(628)年3月18日の早朝、漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が、宮戸川(現在の隅田川)で投網にかかった黄金に光る観音像を見つけました。現存する浅草寺の秘仏、聖観世音菩薩です。

兄弟が土地の郷司・土師中知(はじのなかとも)に相談したところ、郷司は自ら出家し、生涯礼拝供養したと伝えられています。兄弟と郷司の三人を権現として祭ったのが浅草神社で、「三社さま」とも呼ばれる由縁です。

三社祭は浅草神社が建立された12~15年後に始まったといわれています。元々は浅草寺と浅草神社が一緒に観音様の示現を祝う「観音祭」として、3月17、18日に「船祭礼」「庭祭礼」が行われていました。明治6年、神仏分離が行われると、「船祭礼」が浅草寺の法要としての「示現会」に、「庭祭礼」が浅草神社の祭としての「三社祭」に分かれます。改暦で祭が3月から5月に移り、「船祭礼」は行われなくなりましたが、平成12年に示現会の一部が再開され、今年も三基の宮神輿の「堂上げ」と、翌朝の「堂下げ」が行われました。

堂上げ1

江戸時代の船祭礼

江戸時代の船祭礼は、記録によると次のようでした。3月18日の大祭前夜、浅草神社の御神体がお移りになられた一之宮・二之宮・三之宮三基の御神輿を、浅草寺本堂外陣へ「お堂上げ」します。本堂外陣に納められた三社のご神体は浅草寺一山の読経の後、ご本尊の御前で一晩お泊まりします。この時「神事びんざさら舞(現在都民俗無形文化財)」が堂前の舞台で奉演されました。

翌大祭当日(18日)には、各町会より山車が観音本堂前に参詣し、随身門(現在の二天門)を出て自分の町へ帰りました。その後、御神輿三基が「お堂下げ」されます。本堂外陣から降ろされた三基のお神輿は、一之宮を先頭に浅草御門(現在の浅草橋際)の舟乗り場まで担ぎ運ばれました。

ここから各お神輿が舟に乗せられ、隅田川を漕ぎ上がって、駒形あるいは花川戸から上陸し、浅草神社に担ぎ帰られたといわれています。当時は手漕ぎの舟で、隅田川は洲があちこちにあったので今より流れも緩やかだったようです。また舟を供奉したのは品川・大森海岸の漁師でしたが、その訳は、観音様がご示現されたため禁漁になった隅田川の漁師が、大森海岸に移り住んだことによるそうです。

三社祭700年祭の舟渡御

平成24年には三社祭斎行700年を記念して、「舟祭」を「船渡御」として再現しました。昭和33年に一度だけ復活したものの、その後は行われることがなかった舟祭が54年ぶりによみがえったのでした。三基の御神輿が舟に乗って隅田川の水面を滑ってゆくようすを見ることができたのは、先祖代々、浅草神社の氏子であり、観音様の信者である私にとっては、なんとも感慨深いものでした。

舟渡御

平成26年示現会

示現会は今年も無事に斎行されました。3月17日の夕刻、あたりが薄暗くなった頃、浅草神社にて神官神霊入れの儀。その後、本社神輿三基が氏子衆により浅草寺本堂外陣へ「堂上げ」されました。たいまつに照らされた中、一之宮、二之宮、三之宮が粛々と本堂階段を昇るようすは厳粛で美しく、威勢のいい掛け声とともに担がれる神輿渡御とは違った感動があります。

堂上げ2_m

翌18日、ご本尊の御前で一晩お泊まりした本社神輿は、浅草神社の宮司祝詞・浅草寺一山読経の後、本堂より「堂下げ」。氏子の行列にて本堂周辺を練り歩き、最終的には仲見世を通り、宝蔵門を通って浅草寺、そして浅草神社へお戻りになりました。さらにこの日は「金龍の舞」奉納も。観音様ご示現の際「寺辺に天空から金龍が舞い降り、一夜にして千株の松林ができた(現世利益ともなる五穀豊穣の象徴)」と『浅草寺縁起』にあることから創られた舞。浅草寺の山号「金龍山」に由来します。

堂下げ

渡御2

金龍1

さあ、三社祭に向けて!

示現会が終わると、浅草は三社祭に向けて本格的に動き出します。今や全国から神輿の担ぎ手が集まり、3日間で150万人もの人出がある盛大なお祭りとなりましたが、本来は観音様のご示現を町の人々が祝い喜ぶ祭礼です。浅草の人にとって、一年は三社祭に始まり、三社祭に終わるといっても過言ではありません。町会の役員がお目付け役になり、婦人部が支え、青年部が手足となって働く。お祭りを中心に、世代を超えて結束するのが浅草という町なのです。

この記事を書いた人/提供メディア

Rie Tomita

Rie Tomita 東東京・プロジェクト 和文化研究員。10数年間、夫の仕事で東京以外の土地を転々としたのち生まれ育った浅草に戻ってきたので、東東京の魅力、残念な部分を冷静に見られるようになった。和装をはじめ、和文化関係のイベントを自身で主催、発信している。和装履物店 あさくさ辻屋本店の代表。

週間ランキング

  • mag_wanted
  • 151220_sooo_banner
  • 151220_reboot_banner