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2014.02.06 (Thu)

戦後昭和の「吉原」を愛をもって撮り続けた写真家 広岡敬一

浅草界隈は歴史・文化の財産をちょっと歩いただけで感じることのできるところです。江戸時代から昭和中期まで東京の中心として賑わい、数々の文化・芸術を生み出しました。

今回は戦後昭和の「吉原」を愛し、写真の中に「吉原」を”中側”から記録し続けた写真家 広岡敬一さんをご紹介します。

戦後昭和の吉原って”外側”からはどんな風に見えていた?

戦後昭和というと1950年(昭和25年)前後くらいでしょうか。浅草を散策すると、そのころの「吉原」を実際に見た世代の方々に会う機会も少なくありません。

現在70歳くらいの方と数人お話しましたが、皆さん目を遠くにして口をそろえて言うのは、当時まだ子供だった頃親と一緒に通りかかったときの「吉原」の印象はとてもワクワクする感じで、何をするところかはわからなかったけどきれいな着物・服を着たきれいな女の人がきれいなピカピカの床のダンスホールでシャンデリアの下、男の人と踊っていたとか。(どうやら建物のドアは開いていて、中が見えていたよう)華やかな印象だった様子が伺えます。

では「吉原」の”中側”って?これを記録し続けたのが写真家 広岡敬一さんです。

「吉原」・日本の“色街”を愛情をもって撮り続けた広岡敬一さん

広岡さんは1921年に中国に生まれ、第二次世界大戦中は中国で写真班員として日本特攻隊員を撮影記録する日々を経て、戦後日本に帰国したときに生きていくために選んだ仕事が赤線(別名:特殊飲食店(公認の遊郭))で働く女性を写真に収めることでした。

最初に広岡さんが足を踏み入れた赤線が「吉原」。浅草を歩いていたら知らずに来てしまったそうです。そこから60年間「吉原」をはじめ、日本の“色街”・風俗業界を記録し続けました。最初カメラを向けながら複雑な気持ちをかかえたとのことですが、後に民間放送報道部のカメラマンや新聞記者となっても、なお自ら仕事の分野を風俗において活動しました。

広岡さん自身の供述では“終戦から間もない頃に私は、赤線の人たちと内輪に近い生活を送った。”(「私の赤線時代 昭和色街美人帖」 写真・文:広岡敬一 より)とあり、そこで働く女性たちが心を開いてくれたと感じていたようです。吉原で働く女性たちの哀しみの詩なども掲載されている広岡さんの本(同上)からは彼女達の哀しみ・社会への恨み・他人への思いやりを愛情をもって見つめていたのが伝わってきます。

「死」が確定している特攻隊員を撮影することから解放された広岡さんが、「生」に近い「性」を職業にする女性に惹かれたのは、自身の生きることへの欲望だったのかもしれないという内容のことを娘さん 広岡今日子さんがサイトで記述しているのがとても印象に残りました。

広岡さんの写真は現在、歴史的にとても貴重な記録になっています。著作権の為、残念ながらこでは吉原で撮影された写真は掲載できませんが、ぜひ出版されている本また、娘さんの広岡今日子さんが管理されているサイト「色街の記憶 風俗ジャーナリスト・広岡敬一が綴る昭和の足跡」を覗いてみてください。

この記事を書いた人/提供メディア

Kumiko

独自性研究員。 独自のアイデアで、”考える”機会を与えてくれるものに惹かれます。 また、時間の動きに興味があり、今流行っているものよりも、その先: 時間を先に引っぱっている事や人、または、それ以前: 時間が刻まれた物をいつも探しています。東東京にはこれらの要素がいっぱいで飽きることがありません。

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