2014.01.29 (Wed)
平成の大修繕、完了!今も昔も下町の社交場、神谷バー@浅草
浅草一丁目一番地一号、浅草の老舗を代表する「神谷バー」。人気商品の<デンキブラン>というお酒は、ご存知の方も多いのでは?古きよき時代の浅草を偲ばせてくれるアーチ型の窓がクラシックな建物は、2011年登録有形文化財に登録されました。さらに昨年末、約10ヶ月におよんだ耐震補強工事を完了し、全面営業を再開しました。
お話しさせていただいたのは、浅草の老舗経営者にしてはめずらしく、目黒生まれ、高輪育ちの神谷直彌さん。平成13年に5代目社長に就任してからは、浅草の町のためにもさまざまな場面で活躍されています。
当時の最新流行<デンキブラン>
「神谷バー」は1880年(明治13年)、初代・神谷傅兵衛が浅草区花川戸町四番地にて「みかはや銘酒店」を開業しました。「当初は一杯飲み屋のような形態だったようです。私の祖父の代までは今のような飲食店だけではなく、酒造業も営んでおり、デンキブランやハチブドー酒などを製造・販売していました。店舗の内部を西洋風に改造して、屋号を神谷バーと改めたのは明治45年のことです」
<デンキブラン>は、明治時代に登場したブランデーベースのカクテル。電気が珍しかった文明開化の時代、目新しいもの、最新のものに“電気○○○”と名付けることが流行しました。<デンキブラン>もアルコール45度という強いお酒のイメージと重なり、ハイカラな飲み物として人気を博したそうです。神谷バーの現在の<デンキブラン>はアルコール30度、<電氣ブランオールド>は40度です。ブランデーのほかジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされていますが、その分量は未だもって秘伝です。
関東大震災、東京大空襲も乗り越えて
「登録有形文化財に登録された神谷ビル本館は大正10年、関東大震災の2年前に落成した鉄筋コンクリート建造物です。第二次大戦の東京大空襲でも内部は焼けましたが、外側は残ったんです。うちが面している江戸通りは緊急時輸送道路になっていて、道路の幅の半分以上の高さがあると通行の妨げになるということで、東京都から耐震工事を義務付けられています。古い建物なので図面も残っていないし、建物の構造がどうなっているのかわからず大変でしたが、区役所に紹介してもらって、谷中の朝倉彫塑館の耐震工事を手掛けた事務所を紹介してもらいました」
筆者は以前、浅草で呉服屋を営んでいた大正6年生まれの方に「東京大空襲で、浅草から上野まで見渡せるくらいすべて焼け野原になってしまった中、神谷バーの建物だけ残っていたのを覚えている」と聞いたことがあります。家や店舗を失った当時の人々の目には神谷バーの建物が戦後の希望へ繋がったのではないかと想像します。
「役所との打合せなどで計画から2〜3年はかかりました。工事期間は、全体では10ヶ月くらい、コアな期間は半年くらい。営業しながら工事を進めるのは大変でした。営業と工事スペースを分けたり、夜中に入ってもらったり。全部壊して立て直したほうが早かったのですが(笑)。歴史的な建造物ですから、今後も守っていかなければならないという使命感はありますね」
飾らず気取らない、下町の社交場
1階は、改装してもレトロな雰囲気は変わらない「神谷バー」。大正時代のミルクホールってこんな感じだったのでしょうか。泡にこだわったアサヒ生ビールをデンキブランと交互に飲むのが“カミヤ流”だそう。2階は「レストランカミヤ」。家族連れやグループでのお食事、パーティー向けです。3階の「割烹神谷」はガラリとイメージが変わって和風。個室もあって落ち着いて食事できます。
「明治、大正、昭和、平成とこの場所でお客さまをお迎えしてきました。その間、浅草の街も姿を変え、人々の暮らしも変化してきましたが、神谷バーは飾らず気取らない“下町の社交場”の雰囲気を大切にしていきたいと思います」。浅草に来客がある際、神谷バーにお連れすると大抵喜んでいただけます。年齢、職業、国籍問わず受け入れる懐の深さは浅草の町の特徴でもあり、神谷バーはその代表ともいえる“おもてなし”の場だといえるでしょう。