2014.03.11 (Tue)
書き心地の“善い”ノートを|ヒガシ東京で働くVol.4 ツバメノート@台東区浅草橋【前編】
連載『ヒガシ東京で働く』第4回は台東区浅草橋のノートメーカー・ツバメノートにお邪魔しました。JR総武線「浅草橋」駅から徒歩約10分、帽子メーカーやレザー作家が居を構える一角にツバメノートのオフィスはあります。入口の目の前に到着し、自動ドアを開けるとそこは“大学ノート”の山でした。
今回、インタビューを受けてくださったのは専務取締役の渡邉精二さんです。精二さんは、大学を卒業する21~22歳の頃よりツバメノートで働き54年、ノート作りに半生をかけてきました。ノートに使う筆記用紙へのこだわり、これからツバメノートを背負う商品開発の話など、たっぷり伺うことができました。
異業種企業やクリエイターとコラボレーションを重ねるツバメノートのノート作り物語、じっくりお楽しみください。
イギリスから渡って来たノート
終戦後、大八車に品物を積み、文具を売り歩く一人の商人がいました。当時、彼が扱っていた品物の中には、今では見るのも珍しい和帳式の“帳面”が並んでいました。時を同じくして、東京大学の教授や学生が、留学先のイギリスから帰国します。彼らが持ち帰ったノートは、今や一般的になった洋帳式です。
商人は、当時の和帳式に比べて見栄えや書き心地の良い洋帳式に感銘を受けます。そして、日本でも同じような“善いノート”を作ろうと決心しました。その商人こそツバメノートの創業者・渡邉初三郎さんです。
精二さん「当時は筆記する際に、舟形をした吸い取り紙という道具が使われていたんですよ。例えば帳簿にペンで記入しても、紙のインクの吸いが悪く、手でこすって跳ねてしまうことがありました。だから、少し書いたら吸い取り紙でインクを吸い、跳ねないようになったらまた書くということをしていたんですね」
洋帳式のノートには、インクをちゃんと吸う紙が使われていたそうです。
精二さん「吸い取り紙でインクを吸うのは手間でしょう。その手間を省いてあげたいという思いから、『日本でも(英国から持ち帰られたような)善いノートを作りたい』という思いに繋がったんですね。ノートは文化を担うものですから」
人々の手間を省いて、仕事や勉強に集中させてあげたい――。当時の日本には、世界と対抗していこうという機運が満ちており、時代と思いが呼応して、ノート作りはスタートします。今でもツバメノートの代名詞として知られている、紙の書き心地が完成したのもこの時でした。
欧州の紙に負けないツバメフールス紙
ツバメノートには、制作当時から今に到るまでオリジナルの紙が使われています。
精二さん「昭和21年から1年間、十條製紙(現・日本製紙)と共同でイギリスのノートに負けない紙を研究し作りました。わたしたちがユーザーリサーチをして、十條製紙がそれに応える。最高の紙を作る為に頑張った日々が、今も使われているツバメフールス紙の誕生に繋がっています」
イギリスのノートに使われていたフールス紙は、筆記用紙として最適の紙でした。その紙に負けず劣らずの品質を作り上げようと、苦心の研磨の結果できあがったのがツバメノートオリジナルの紙「ツバメフールス紙」です。
精二さん「紙には厚みだけでなく、表面の平滑度や印裂度、インクの浸透度など品質を計る目安が細かくあります。滑りすぎず、ざらつきすぎない、ちょうどいい紙を作ることに力を注いだんですね」
紙には種類があり、本に使われるような上質紙やざらつき感のあるわら半紙などがある中、当時は筆記に特化した紙を使ったノートが日本にはなかったそうです。日本で初めて筆記に適した紙作りに精を出したのがツバメノートでした。
精二さん「ツバメノートの紙には、蛍光染料を一切使っていません。従って目に優しく、疲れが違うと多くの方々に支持されています」
ツバメノートの背にはWとHの文字が印刷されています。これは創業者・渡邉初三郎さんのイニシャル。自信を持って世の中に出せる「書き心地も、人の体にとっても“善いノート”」が完成したことの証です。紙には流行り廃りがあり、時代に合わせて変化させる必要もあったそうで、微調整を重ねながら、当時の品質を踏襲した形でツバメノートは今も作られています。
後編では、代々紙作りに精を出して来たツバメノートが将来を担うために開発した新たなノートの話、そして他企業やクリエイターとコラボレーションした商品開発について紹介します。ツバメノートは優れたデザインや広く知られているキャラクター等を提案してくれるパートナーと、積極的に関わっています。オリジナルデザインの表紙のノートを作ってみたい方など、お楽しみに。