2014.04.22 (Tue)
長く続く仕事には「人を大切に思う」働き方がありました。江戸漆器・ぬしさ製作所@台東区松が谷|ヒガシ東京で働くVol.6
(左から竹俣瑛二さんと圭清さん。叔父と甥の2人)
こんにちは、ライターの新井優佑です。ぼくは伝統工芸に関心があります。伝統と呼ばれるようになるほど、長く残ってきた仕事の、残せてきた秘訣を知りたいからです。今回お話しを訊いたのは、江戸漆器を手がける「ぬしさ製作所」の3代目・竹俣瑛二さんと後継者・圭清さん。漆器職人を雇い、自社を経営してきた方の話から、働く事について改めて見つめ直す機会を頂きました。
自分の仕事を末永く続けてきた方のやってきた事は、とてもシンプルでした。でもそこには、ぼく自身おろそかにしがちだった「人を大切に思う」働き方がありました。
従業員を第一に思う経営姿勢
株式会社ぬしさ製作所は、台東区松が谷にあります。江戸漆器と呼ばれる、せいろや湯桶といった蕎麦道具などを作成、修繕する会社です。また、国会議員の名前が書かれた氏名標や投票用の木札も制作しています。オフィスには職人の作業場の他、資材置き場や休憩室がありました。人が住めるくらい環境の整った社屋です。
瑛二「こういう小さい商売だとな、ふつう国民年金なんだ。でも全員、厚生年金できちっとした。(ぬしさ製作所の職人は)だから厚生年金をもらっているよ。食えるようにしてある」
元は上野に製作所を構えていた。住み込みの職人もおり、寝食をともにした「家族」の面影は今も残る。
ぬしさ製作所の職人は、引退する事なく今でも勤めています。「親父元気で留守がいいって言葉があるだろう。だから来たい時は来い」と瑛二さんは言います。
瑛二「来てる間は、職人の仕事を頑張るぞって言う。(瑛二さんは)日曜、祭日休みなしで働いてるよ。(職人が来た時に)塗り替えなんかが置いてあれば、何日間くらい仕事があるなってわかるだろう。そういう事はこっちがやんなくちゃいけない」
経営者として、仕事を枯らした事はないという瑛二さん。作り手と卸先の間に入って、今も現役で営業に回っているそうです。
お客さんの背中から学ぶ営業力
瑛二さんは学生時代、テニスや柔道、レスリング、射撃に打ち込んでいました。ご自身で、「やんちゃしたな」と言うほど、活発だったそうです。家業のぬしさ製作所に入ったのは、大学卒業と同時。以来、経営や営業等を仕事にしています。
瑛二「男だからな。『跡継げ』なんつってここでやったわけだ。商売のやり方は、親父や誰かから教えてもらった事はないな。あれだ、『お客さんに教われ』ってな」
蕎麦屋に営業に行き、店の方々と接する時間が瑛二さんの営業力を育んでいきました。
瑛二さんが作ってきた仕事の結晶たち。ぬしさ製作所の手がけた蕎麦道具。
瑛二「(蕎麦屋に営業に行くと、)海老剥いてんだろう。メキシコ産のあれを。(当時は)外食なんて蕎麦だけだから忙しいからな。ぼけっとしてないで、『こうですか』ってしゃべりながら手伝うわけだ。な? 出前が帰ってきた場合は、『おかえりさん』って開けてな。『それくらいまでやんな』って事は親父に言われてたな」
今では「食べれないこともねえよ。でも天ぷらの海老は食いたくねえもんな」と言うほど海老剥きの手伝い等をして、仕事を作ってきた瑛二さん。「(手伝い続けていけば、)人間関係ができる。一番肝心がそこなんだよ」と、ほんの少し表情を柔らかくして、教えてくれました。
長い年月を一緒に過ごせる江戸漆器という製品
“江戸”も“漆器”も耳慣れた言葉だったため、ぼくはてっきり“江戸漆器”の事を知っている物だとばかりに思い込んでいました。それが、話を聞いていて初めて「蕎麦道具の事なのか」と分かり、勉強不足で恥ずかしくなっていると、蕎麦道具の色にまつわるエピソードを教えてくれました。
瑛二「更科蕎麦ってあるだろう。あれは江戸の献上蕎麦になった。それでなんだい、将軍に持っていくからっていって、(せいろ等の食器が)赤になったんだ。それで藪蕎麦ってのもあるだろう。あれは町民のあれだから、黒なんだ」
赤い漆は朱の粉といって、水銀から作られた粉で色味を出しています。当時、水銀は中国からの輸入品だったため、大変高価な素材。それだけに、神社仏閣で使われ、将軍への献上品になった更科蕎麦の蕎麦道具も赤になったそうです。
蕎麦屋のお品書きも作成する。漆を使う物であれば、どんな物でも作り、修繕できる。
また、蕎麦道具の本体(木地)についても教えてくれました。
瑛二「木地は木地屋があるんだ。うちの専門のな。木地のまんま来て、そうすっとうちで全部塗って製品にして出す。新品もやるし、塗り替えもやる。木が腐るまで塗り替えればずっと使えるからな」
蕎麦道具にはプラスチック品もあります。でも木地で作った物であれば、修繕して繰り返し使う事ができるんですね。プラスチック品に対して木製の道具は高価だけれど、お金を渡す側として、どちらの商品がいいのか考える目を持っていたいと思いました。
また蕎麦道具だけでなく、国会の氏名標も塗り替えて作成しているそうです。歴代の政治家たちの名前を引き継いで、今の政治家の名前は掲げられているという話を聞く事ができ、戦後から今の今まで氏名標を作ってきた“ぬしさ製作所”の歴史を感じました。
4代目として引き継ぐマインドと拓く未来
瑛二「一番のあれっていうのは、作った物をお客さんに納める、『嫁に出す』っていう事だよな。向こうは買ったけど気に入らねえってなんか言って、『離婚したい』って言うんじゃ困る。だから相手が気に入るまで責任持とうっていう事なんだ。そういう商売をやりなさいよって、先代に教わったね」
ここまで瑛二さんの話を聞いてきて、ぬしさ製作所のスピリットを垣間見せてもらえたように思います。だからこそ、そんな魂を引き継ぐことになる後継者・圭清さんにも話を伺いたくなりました。
長い年月を経て受け継がれて来た仕事と、これからのぬしさ製作所をどうやって結びつけていきたいのか。圭清さんに質問します。
国会の氏名標を書いてきた歴史のわかる額縁。当然ですが、歴代の総理大臣の名前も見受けられました。
ーーーまずは圭清さんのプロフィールを教えて頂けますか?
圭清「もともとは、大学を卒業して家具や椅子を作る職人になりました。父の仕事(業務用食器や料理道具の卸業)や、こっちを手伝うという意識ではなくて、物作りが好きで着いた仕事でした。天職だなと思っていて」
ーーーそれが、どうして継ぐ事になったんですか?
圭清「父の仕事がこう(右肩下がりに)なってきたのと跡取りがいなかったので、親孝行をと思い手伝い始めました。それから叔父との付き合いもはじまって、ぼくなりに新しい形で引き継ぐ事ができればいいなと思うようになって、ちょうど10年くらい経ちますね」
ーーー圭清さんなりに「新しい形で引き継ぐ」とは、どういう事でしょうか?
圭清「叔父も、父も、先代も、自分にしかできない仕事を作ってきたんだと思うんですね。叔父は今、ぬしさ製作所が受けている蕎麦道具の仕事のほとんどを取ってきましたし、先代は国会の氏名標の仕事を受ける事ができていますから。だからぼくもぼくで、今までやってきた自分自身のルーツ(家具や椅子等の物作り)を活かした取り組みをしていきたいと思っています」
江戸漆器の作業工程がまとめられたページ。「ろいろ仕上げ」の場合、全29工程。
ーーー具体的にはどんな取り組みをしたいと思っていますか?
圭清「今は遠く離れてしまった漆と人との距離を近づけるようなもの作りや活動をしていきたいと思っています。ぬしさの精神や誇りをしっかり自分の中に入れて、自分なりの表現でアウトプットしていくことがいまの役割でしょうか。叔父や父や先代がそうしてきたように。」
圭清さんは今、埼玉でNUSHISAというブランドの新商品の開発と製作を行い、又ショップと家庭料理の食堂を経営しています。今後下町にて新たなプロジェクトも進行中とのお話でした。このNUSHISAという名前を通して、歴史やプライドを背負い、未来を拓く事が圭清さんのビジョンでした。
お二人の話を聞いているだけのこちらにさえ、そのマインドは伝わってきて、ぼく自身得られる物が大きい取材になりました。最後に瑛二さんの言葉から特に印象深く、ぼく自身に刺さった言葉を並べて、この記事を終わりにしたいと思います。
この日も作業場では、江戸漆器の職人の方が漆を塗り、磨いていました。
「(長い年月を越える仕事をしてきて、時代、時代の流れに合わせた経営をするにはどうしたらいいかと訊いたところ、)前向きにぶつかってするしかないだろうな。人が何か言って、『いいな』と思ったから取り替えるっていうんじゃダメだよ。自分の体でぶつかっていけってことだよな」
「まだ30、40くらいのやつがわかったような口で言うと、『お前、黙ってろ』って言うわな。商社でも一歩下がる。言う時は言う。それが普通だよ。わかったふりしていると、得をするより損が多いよって」
「だから、銭残すか、人間関係作るか、生きていく上ではどっちかだよな。銭持ったらこうなる(天狗になる)やつがいるけど、上には上がいるしな。だから人だね。そのためには、まず店の職人を大事にしろ。宝だよ」
瑛二さん、圭清さん、取材にご協力頂き、有り難うございました。