2014.01.21 (Tue)
素材への想い、職人のフィロソフィー、100年以上の歴史が語るヒガシ東京のものづくり─ヒガシ東京で働くVol.2:ガラスメーカー・廣田硝子@錦糸町【前編】
地域には顔があります。その地域で働く人、暮らす人を知ることで、その顔は鮮明になっていきます。顔は地域への入口でもあり、その扉を叩くことで地域に溶け込み、働き、暮らしやすくなると思うのです。じゃあ、どうやってその入口を見つければいいのか。入口を見つける手助けになればと思い、前回この「ヒガシ東京で働く」というコーナーを立ち上げました。
vol.2の今回は、vol.1でインタビューしたデザイン事務所・SOL styleとコラボレーションしてガラスの万華鏡を作成した、墨田区錦糸町にある廣田硝子の社長・廣田達朗さんを取材しています。明治32年に創業し、日本の新時代の幕開けに寄り添うようにして、ガラスのコップや食器を作ってきた廣田硝子。近年はSOL style以外のデザイナーともコラボレーションして、食器以外のプロダクト開発を行ってもいるメーカーです。その廣田硝子の社長・廣田さんに教えてもらった、事業の話、素材の話、コラボレーションの話を通じて、きっとヒガシ東京の顔がまた一つ鮮明になると思います。
前編では、事業の話と素材の話を。来週配信予定の後編からコラボレーションの話を紹介します。
廣田硝子というガラスメーカー
明治32年、錦糸町一帯は区画整理が行われ、今でも街の特徴となっている縦横に真っすぐ伸びた道が通ったそうです。その折、錦糸町にある駄菓子屋関連の工場向けに、煎餅を入れる瓶などを製造していたのが廣田硝子でした。
廣田硝子は戦災で工場を焼失してからというもの、周囲の工場と連携を図り、企画やデザインを行って全体のマネージメントをするガラスメーカーとして、今日まで運営されています。
「基本的にガラス食器は分業で作っています。ガラスの生地作りを行う会社と江戸切子を行う会社は分かれていて、東京におおよそ30社くらいあり、各社と連携しながらガラス製品を作っているんです」
ガラスという素材への想い
初期投資が高いこともあって、ガラスを扱う産業への新規参入はなかなか難しいそうです。今ある、ガラスメーカーのほとんどは創業100年前後の会社だと言います。
「ガラス食器は商品を作るために、金型を作る必要があります。そして、ある程度の商品数がないとアイテム展開を踏まえた事業として回していくことはできません。だから、金型を資産として積み上げていける会社じゃないと継続していけないんです」
それだけのコストと時間をかけてでもガラス製品を作り続けている廣田硝子の話を聞いているうちに、ガラスそのものの魅力について聞いてみたくなりました。
「ガラスの魅力ですか?ガラスの特徴って、透明感や素材感なのだと思います。ガラスを通すと、光が綺麗に見えますよね。また、持ったときの重量感も魅力の一つです。持つ質感を活かせるものであれば、ガラスで作ったほうが良いものになるのではないかと思います」
やはり、ガラスの魅力をもっと知ってもらいたいですか?
「そうですね。日本でガラスが一般に広まったのは、明治の頃からだと思うんですね。当時は、“ガラス=西洋文化”という面もありました。以前から薩摩切子や江戸切子があるにはあったのですが、実際に使う人は限られていたので、そう考えるとまだ一般的になって200年くらいしか経っていません。日々の生活で、コップぐらいでしか利用されていないことを思うと、もっと異なった利用シーンがあることに、興味を持ってもらえたらなと思います」
左は漆硝子文鎮、右は万華鏡。横たわる万華鏡を見ると、上面に溝が付いている。
ガラス製品と職人の手仕事
ガラスを通した光の魅力は、ヒガシ東京で働くvol.1でもデザイン事務所・SOL styleのお二人から語られています。ガラスを通した光は、虹色の影を地面に落とすようで、取材の際にも間近で見ていてとても綺麗な風合いでした。その虹の光を楽しむこともできるのが、SOL styleと廣田硝子のコラボレーションで生まれた万華鏡です。
万華鏡を作る上で工夫が必要だったことは何ですか?
「この万華鏡の上面の溝は、簡単に削れそうに見えるかと思います。でも非常に集中力のいる手仕事によって完成しました」
機械で作ることもできる時代。それでもまだまだ職人の手仕事でなければできない作業があります。長年ガラスを使ったプロダクト開発をしてきた廣田硝子だからこそ、再現できた万華鏡のようです。
後編ではSOL styleをはじめ、外部デザイナーとのコラボレーションを重ねる廣田硝子について伺っていきます。